明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語

本の紹介

こんにちは。

今日は、本の紹介をしたいと思います。

高橋瑞(みず)。この名前を知っている人はあんまりいないのでは、と思います。当然、理事長も知りませんでした。

明治時代に日本で3番目に医師となった女性です。

壮絶です。高橋瑞の人生。

130年前の日本のことです。「女性が医師になる」というのは「火星に移住してみせる」くらいのインパクトがあることだったのかもしれません。

それくらい無謀なことだったのでしょう。

高橋は、嘉永5年(1852年)に、三河国幡豆群鶴が崎村(現愛知県西尾市)で下級武士の末娘としてうまれます。

10歳の時に父親をなくし、長兄のうちに引き取られますが、そこでは長兄のこどもの世話をして、召使のようにこき使われて過ごします。朝から飯のしたくに洗濯、掃除、こどもの世話、などなど。今と違って、電化製品のない時代ですから、家事はそれはそれは大変な重労働だったのでしょう。

女は裁縫や家事ができるようになって、あとは嫁にもらわれていくだけ。それが当たり前の時代ですから、おそらく高橋瑞もそのときは、自分の境遇を不幸とも思ってなかったのかもしれません。

自分の中に抑えようのない感情が湧き出るのは、兄の娘、つまりいつも面倒をみている姪の美代が死んでしまったときからです。

おそらく百日咳にかかってしまった美代を助けたい一心で、瑞は自分の兄と口論します。しかし、女中がわりに使っていた瑞のいうことなど、相手にしません。ただの風邪だろうと言って、兄は医者に見せようとしません。

当時の日本でも、家督を相続する男の子ならまだしも、女の子をわざわざ金を払って医者に見せるようなことはなかったのでしょう。

百日咳、いまの日本ではめったに見ることがなくなりましたが、いまでも途上国ではこどもの死亡原因の上位に入るくらい怖い病気です。

いよいよまずいと思った瑞は、兄の反対を押し切って医者を呼びに行きますが、間に合わず結局死んでしまいます。

この事件をきっかけに、自分も学問をしたいと、家を飛び出します。瑞はこのとき24歳。当時の女性としてはすでに婚期を逃したかなり遅い門出でした。

このあと瑞は旅芸人一座と東京を目指します。金もなく着の身着のまま出ててきたので、炊事洗濯をするという約束で、一行と一緒に東京まで連れて行ってもらいます。

さて、東京に出てきたはいいものの、まだ漠然とした学問への憧れしかなく、とりあえず生活していくために、ある家に女中として住み込みで雇ってもらいます。そこの主人の紹介で、群馬の田舎で学校の先生と結婚することになります。

ここでも壮絶な生活が待っています。男性が女性をなぐるのが当たり前の時代です。家事をこなし、好きでもない男からセックスを強要され、気に食わないことがあればすぐ手をあげられる。

とうとうあるとき、夫からの暴力から逃れるように、またまた家を飛び出してしまいます。

そのときの瑞は夫に蹴られて肋骨がおれ、おそらく流産しかかっていたのでしょう、出血と痛みで道端で動けなくなっているところを、偶然通りかかったカノに助けれます。

かなり衰弱していた瑞は、しばらくカノと夫の喜助のもとですごします。カノは妊娠しており、瑞はカノのお産を手伝うことになります。

カノは難産で、3日もかかってやっと分娩になりますが、結局死産でした。瑞は、迷信の中で行われる産婆と家族の処置に疑問を抱き、何度もおかしいと言いますが、よそものの言うことなど誰も相手にしません。結局、カノも死んでしまいます。

このとき、瑞は自分が何をなすべきかを確信します。お産で落とす命を一人でも多く救う。

この思いを胸に、女医への道を歩み始めます。

28歳になっていた瑞は、まず産婆になるため、東京の産婆学校で勉強することになります。

この「産婆」という名称ですが、いまでは「助産師」さんと呼ばれますよね。「助産婦」と正式名称が改められたのは昭和23年、「助産師」となったのは、なんと平成13年になってからだそうです。。。

さて、産婆では緊急事態に対応できないことを歯痒く思っていた瑞は、医師への道を模索し始めます。ところが、当時から医師免許試験は医学学校を卒業しないと受験できません。そして、医学学校は男のみ入学できたのです。

当時、西洋医学を勉強するためにたくさんの私塾があったようです。そのうちのいくつかが、現在の私立医学部単科大学の前身になります。

その中で、瑞は済生学舎(現日本医科大学の前身)に入学を申し込みに行きます。と言っても、女性が入学する正規のルートはないので、校門の前にたち、校長である長谷川泰が通るのを待ち構えて直談判する、という作戦をとりました。

結局、4日目にやっと交渉ができ、入学が許されます。ちなみに、済生学舎を選んだのは学費が一番安かったからとのこと。

それまでに瑞は産婆として活躍していましたから(なんと扱ったお産の数は2万!!)、おそらく経済的には困ってなかったと思うのですが、入学してからも極貧生活をして勉強します。もっと計画的にできんのか??って思いますけど、それでもなんとかなってしまうところがすごい。

結局、事前にいくら準備をしたところで、今までに誰もやったことのないことをするわけですから、準備なんて意味ないってことでしょうか。それよりも、直感と行動力、これこそが瑞の真髄だと思われます。

さて、無事、医師免許試験に合格した瑞は日本橋に開業しますが、2年で医院を畳んでしまいます。理由はドイツ留学するため、です。

横浜港からドイツ行きの船にのった瑞は、すでに37歳。持病の喘息と、いままでの無理がたたって、決して体調も万全ではありません。

しかし「ドイツで勉強できれば死んでもいい」との思いで、借金をしてまで旅費をつくります。

やっとついたベルリンで、さっそくベルリン大学に入学許可をとりにいくと、なんと女は入学できない、と言われてしまいます。しかも、ドイツ語がほとんどわからない。

事前にわからんかったんかい!とツッコミたくなりますが、明治の昔のことですから、通信技術も発達していないし情報を得るのは大変だったのでしょう。それでも、語学ぐらいやっておいてよ、、、と思ってしまいますが。

でも、「情報を十分集めてから行動する」、というタイプの人ではこれだけのことは成し遂げられなかったでしょう。

とりあえず行ってみてなんとかする、理事長はこの行動パターン大好きです。

さて、せっかく何ヶ月もかけてやってきたベルリンで勉強できないのでは生きている意味がない、と今にも自殺しそうな雰囲気を漂わせる瑞を助ける人が現れます。

ドイツ人貴族のマリー・フォン・ラガーシュトレームです。

当時の官費留学性の下宿を世話していた関係で、日本人と深い関わりがあったこの女性が、大学の教授たちと交渉してくれます。その甲斐あって、瑞は聴講を許されます。しかし、用意された机と椅子は、教壇の脇に学生たちと向き合うかたちで用意されていました。まるで見せ物ですな。。

教授たちは嫌がらせのつもりだったみたいですが、瑞は「一番前で先生の話がきけるなんて、ありがたいことだ」と喜んで勉強に励みます。

瑞がドイツ留学から帰国した当時、明治25年(1892年)の日本の妊産婦死亡率は400人/10万出生だったそう。

瑞は、お産はすべて無料で診療する方針とし、お産で失われる命を救うことに、生涯をささげます。

瑞が医院を閉じたのは、大正3年12月。そして、昭和2年2月28日、肺炎のため74歳の生涯を閉じます。

なんともすごい人がいたもんです。

2020年シエラレオネの妊産婦死亡率は、1300人です。130年前の日本の約3倍です。

理事長も産婦人科医の端くれとして、この大大大先輩(大がいくらついても足りない)の後を、ほんの少しだけでも追っかけていければと思います。

今日はこのへんで。

コメント

タイトルとURLをコピーしました